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オトナはホントに大人でしたか

 
 
 今のニッポン、「一億総コドモ社会」なんて言われたりもするようにもなって、
もうけっこう経ちますかね。
 不景気から高齢化社会から貧富格差の拡大から…と社会がネガティブ要素に
塗れてきて、「大人になりたくない・ならなくていい・なるのは損だ」という
性向が、遍く国民に広まってしまっていると。
 その時のその時の 目先の気分だけで動くようになって、結果として、責任を
負い、そのための苦労は引き受け、常に向上心を持つ……みたいな大人の
姿勢は大きく失われていると。

 その通りだなと思います。
 思うのですが、同時にその一方で。

 前述したような「大人の姿勢」、「求められる大人像」は、確かに存在した
ろうと思います。社会の・時代の空気として。
 そして、昔の子供や若者は「早く大人になりたい」と憧れたんだろうと思い
ます。

 それでは。

 かつての大人たちは、そんなにちゃんと「望まれる大人」が出来ていたんだろ
うか。
 実はそれほど出来てなかったんじゃないかと、思っちゃったりもするのです。

 「大人の姿勢」「求められる大人像」があって、子供や若者には「早く大人に
なれ」という社会的プレッシャーがあって、「早く大人になりたい」と憧れる。
 そんな中で育って年取った結果、その憧れた大人になれてたのでしょうか。
 「望まれる大人」を実際にやり切ることが出来る人が、本当のところどれほど
輩出されてたものなんでしょうか。
 責任を負い、そのための苦労は引き受け、常に向上心を持つ……常にこれが
できている人なんて、正直、私ほぼ見たこと無いんですけど。

 このあたり何かこう、「かつての大人たち」の多くに 誤解というか、勘違いが
あるような気がしているのです。
 その勘違いというのは、

 「かつての立派な価値観の中で生きてきた自分は、
           (それだけで)立派な大人だ」……という錯覚

です。

 
 

「大人クリア」の誤謬

 「求められる大人像」そのものは、それが忌避されるといわれる現在でも
変わらず立派と思われるものではあるでしょう。それにこれを満たしていると、
実際いいこと(メリット)も多いだろうと思います。周囲に立派と思ってもら
えていい気分。信用もついて来る。何か望む行動をとる時に、自分の意志で
コントロールできる事柄も多くなるはずです。

 で、ほんのちょっと前の社会では、「そんな大人に早くなるべき」という
共通の価値観があったと。その価値観というのは共同幻想(建前)に過ぎない
けれども、すべての人に対して、ある種の圧力として働いていたと。
 そんな圧力がある社会で、誰もが「望まれる大人」になることを真っ向から
目指して生きていたなら それはまぁ結構なことで、世の中は立派な人で溢れて
いた/いるのでしょうが。

 
 しかしそこはそれ『性バカ説』を振り回す私のことですから、そんな立派な
感じだったろうとはまったく思っていません。
 ただ単に、そうした圧力の中で皆が性バカ説的に動いただけのことだろうと
考えてしまうわけです。
 つまり、「極力ものを考えずに楽をして課題をクリアしよう」という動き。

 この場合の課題とは、「望まれる大人だと周囲から見られること」です。
(望まれる大人に「なること」ではなく)
 周囲に対して通りさえすれば、実際に多大な努力=コストを投入して「望まれ
る大人」になる必要などありません。

 ではこの課題をなるだけ簡単にクリアするには?

  実際の本人がどうであるかは関係なく、

 「私はすでに望まれる大人ですが何か」という体で振る舞う。

 バレなければ、これがいちばんラクで効率的です。
 何の努力も要りませんから。
 バレさえしなければ。

 実際、ついこの間まではそういうのが非常にバレにくい世の中でした。
 人を区分するあらゆる属性というか所属というか、そういうものの中身・実態・
裏側が外から見える機会が非常に限られていて、端から見れば、あるグループに
属している人は全員そこの立派な成員に思える。中での優劣とかは分からない。

 「大人」なんていうのは資格試験とかがあるわけでもないし、しかも「大人」
グループに属さない外の人々というと、それは大人に従属する位置に置かれる
子供たちです。子供相手に「俺は望まれる大人だー」とゴリ押しして有無を言わ
せぬことなんて、そりゃもう笑っちゃうほど簡単でしょう。

 ラクでバレないならば、性バカ説的にはそちらの道を選択しない道理などあり
ません。本人が意識する/しないに関わらず。どうしてもそれが通用しないごく
限られた場面でだけ、チョコチョコ努力ずればいいのです。
 いやそうではない、自分はしっかりとホンモノの「望まれる大人」を目指して
頑張ろう! と絶えず意識して行動してる人なんて、どこかで相当強い動機を
植え付けられてしまった変わり者です。希少種です。

 
 で、「言い張ってればそれで大人クリア」な状態がずっとまかり通ってると、
ほどなく当人も「私はすでに望まれる大人である」と思い込んでいく、というのも
容易に想像できる流れでして。ポヤポヤポヤーンと自己洗脳です。私はこういうの
をよく「酔っ払ってる」と言いますが。

 かくして、「求められる大人像」に拠って立つ価値観の社会というのは、
実のところ大半の酔っ払った「なんちゃってオトナ」によって支配されてたんじゃ
ないかなと。

 
 

だんだん色々とバレてきてる中で

 ところが。
 最近になってネットの普及などで情報発信者が増え、いろいろな場の内幕が
徐々に見えるようになってくると、社会のこれまで「なんちゃって」で権威づけ
られていた部分が こまごまとバレてきています。

「歳を重ねていれば、それだけ多くの課題を重ねて経験を積んで、成長・成熟
しているはず」……というのが大人としての説得力でした。ところが、「大して
課題に向き合わなくてもそうそう死なないし年食うことができてしまう」という
状況が、その説得力を霧消させている昨今です。
 このアンバランスも、これまではブラインドの中に隠れていることで辛うじて
大人の権威付けを維持していたものが、どんどんバレて「正体見たり」になって
きています。

「一億総コドモ社会」になっているのは社会にネガティブ要素が満ちてきたせい、
などといわれたりしますが、むしろ、これまで自分らを騙していたこれまでの
ジジババ社会への反発心が多分にあるのではないかな、とも思えるのです。
 騙されていた反発心といっても「今までよくも!」みたいな激しいものでは
なくて、「ほらやっぱり」という達観した冷えみたいな形で。

 一方で年長者の側は「年を経ていれば既にいろいろクリアできている」という
勘違いで、「俺はもう“上がり”だからもう課題は避けていいし何してもいい」
とか錯覚し出す。そんな錯覚から世間に「老害」的理不尽を振り回すようなこと
が起こると、そういうことがあるたびに年少者が年長者を見る目はよりいっそう
冷ややかになっていく。

 こういう傾向が進むことを年長者は「これまでの良き規範が失われた」とか
思ったりするのかも知れませんが、私はこうして色々バレていくこと自体は
いいことだと思っています。
 まやかしが減るならその方がいい。
 世の平衡なんて、常にどこかしら乱れているものです。今までのは隠れていた
り目を向けられにくかったりしただけで。

 今はこうしたバレが「大人になりたくない・ならなくていい・なるのは損だ」
という空気を生んでいるようですが、これから先に目を向ければ もしかすると、
諸々のバレを飲み込んでこれをくぐり抜けた先に・いっぺん価値観が解体された
先に、憧れてもなれなかった「さらなるオトナたち」が出現してくるのかも。
それとも、今とは違う新たな「憧れるべきオトナ像」が出現するだけだろうか。

 
 

あまりアタマを使わなくていい世の中でカッコイイとされること

 
 
 有無をいわさず襲ってきて自分らの生存を脅かすような ヤバい「課題」が
少なくなってきて、あまりアタマを使わなくてもいい世の中になってきてる
今の日本。
 そういう変化があると、それに合わせて人の考える「良いこと/悪いこと」
=価値観も変化してくると思います。

 かつて堺屋太一は『知価革命』の中で言いました(1985年の本だから、もう
30年ほど前になりますか)。
「豊かなものをたくさん使うことは格好良く、不足しているものを大切にする
ことは美しいと感じる、人間のやさしい情知」
 これが優しさなのか情知なのかは分かりませんが、なるようになるべく動く
人間の習性としてはすごく分かる気がするし、いつどんな時代・状況でも
適合する法則として使えそうです。

 これを「性バカ説」的に、
   かつての「避けられない課題が次々押し寄せる世の中」と、
   今の「課題を避けようと思えばけっこう避けられる世の中」と
――に当て嵌めて較べてみると、どうなるでしょう。

 
●避けられない課題が次々押し寄せる世の中

   豊か → アタマを使って押し寄せる課題に対処する機会

   不足 → 課題に追い立てられない楽な時間

 
●課題を避けようと思えばけっこう避けられる世の中

   豊か → あまり考えなくても得られる課題解決力/便利

   不足 → アタマを使うべき/使いたくなるような命題

 
 こんな感じでしょうか。

 前者なら、
「数多ふりかかる課題に敢然と立ち向かって次々とクリアし、
 わずかな間隙でしっかり休息をとってリフレッシュする」
 みたいなカッコイイ像が描けるような気がします。

 
 一方 より現在の状況に近いと思われる後者なら。

 「命題が不足」してるとはいえ、緊急性が高くてマジ危険な課題はイヤで
しょうし、大切にしたい(大切に取り組みたい?)とも思わないでしょう。
それに、他者が共感しやすい命題でないと、他者がカッコイイと思うことも
ないと考えられます。
 そのあたりも踏まえつつ上記の形に「豊かものはジャブジャブ使い、貴重な
ものを大事に」を当て嵌めると、

「自分に課す課題を自分で選んで(自分さがしとか生き甲斐とか?)
 日常の多くをそこに注力し、それ以外のことにはめいっぱい便利さを
 享受して楽にこなす」

 という風に、いわば「自分をデザインする」ことに成功して見える人が
カッコイイとか、人生うまくやってるみたいに映る感じでしょうか。
「課題を選べる余裕と、選ぶ眼力」があることが羨まれる、といったところ?

 けっこう、現状に合致してる気がしますが、いかがでしょう。

 
 暮らしを奴隷に支えられていた社会でのソクラテスの「善く生きる」追究
なんかも、要はこういうようなことかもしれませんね。

 
 

創造をしたい人も「性バカ説」で動くのか

 
 
 「性バカ説」の「より考えない方に向かおうとする性質」ってエントロピー
増大則みたいに、放置すればただひたすら最大化に向かってはたらくんだろうと
私は考えているのですが。
 だとすると、それを局所的にエントロピー減少を発生させるべくはたらく外部
からの力に当たるのは、強い意欲のもとに行われる創造・発明とか、そのための
思索とかでしょうか。

 人に「性バカ説」の話をしてみると、こうした創造とか、創造したい意欲とか、
そういう話によくなります。

――人はバカに向かうばっかりみたいなこと言ってるけど、いろいろ生み出し
ていきたいとも思ってる人もたくさんいるし、実際に生み出してるし、それで
『言って来い』でバランス取れてるんじゃないの?
――ということです。

 喫緊の大きな(またはたくさんの)「課題」が無くても、こういう力によって
バカ化は防がれているんじゃないのか/そういう人もいるだろうと。

 たしかに、そういう何か作り出そうとするパワーや、そのために注がれる努力
などそれ自体は、「性バカ説」的なバカに向かう力に逆らってはたらく、バカに
なるまいとする力(エントロピーを減少させる力)だといえると思います。

 でも、そういう意欲を持っていれば人はバカには向かわないのか、というと、
そうでもないだろうと思うのです。
 差し引きで考えれば、それだけではやっぱりトータルとしてバカに向かうん
じゃないのか、と感じています。
 個人の中のこととして考えても、ヒト全体として考えても。

 

個人の中のこととして考えてみると:

 何か新しいものを創造しよう、発明しようと意欲を高くしている人は、
それに取り組んでいる時 たしかに試行錯誤を繰り返して、苦労にも立ち向かっ
て、たくさんアタマを使うでしょう。
 そうして「課題」(必要から、というより作り出した「課題」ですが)に
向きあっている分には、バカ化の余地など無いように思えます。

 ですが そういう人も、むしろその「課題」にのめり込んでいればいるほど、
それ以外の事柄に関しては「よりアタマを/手間を/時間を 使いたくない」
という方向に強く意識が向かっているものではないでしょうか。
 そしてやっぱり、「取り組みたい課題」以外の日常的な雑事やらについては
世の便利さを可能な限り享受して、より考えない方に向かおうとするでしょう。
 となると、そうした人のバカ化がどれほど進んでいくかは、その人が取り組む
「課題」にどれほど注力しているかによるでしょうか。ちょっと油断すれば、
トータルではやっぱり世のバカ化に寄与していそうな気もします。

 

ヒト全体で考えてみると:

 ヒト全体で見ると、誰かがどこかで新たな創造・発明をすると、やがてそれ
が広がり、多くの人が あらためてそれを創造・発明する苦労をすることなく、
その恩恵を享受できるようになります。その創造・発明が生み出すものが、
前よりも手間をかけず/アタマを使わず得られるようになるということです。
 つまり、誰かがアタマを使って何かを新たに作れば作るほど、そしてそれが
広く伝播すればするほど(その伝播する力というものもまた、誰かの創造・
発明が積み重なって拡大してきました)、ヒト全体はアタマを使わずに済む
ことが増えていく。
 こうしたことをたとえば「便利」「効率化」と言ったりして、知恵のもたらす
美徳のひとつとされていますが、「便利」「効率化」ってまさに「性バカ説」
そのものだなあと思うのです。

 一方には 人の思考・思索を促す創造/創造物というものもありますが、
そうしたものは多くがエンターテイメントという位置に置かれて「実際的な
もの/こと」とは別に扱われちゃったりしますね。

 
 

妄想:アタマを使わない方向への「適応」が向かう先

 
 
 生存を脅かすような課題が無ければべつにアタマを使わなくてもいい。
アタマを使わなくてもいい時には、極力使うまいとする。そんな風に人間は
できてるんじゃね? なんて話をしてますけども。

 となると、シリアスな課題がだんだん減ってきてるような昨今、知能を使わず
に済むことがどんどん増えて人間のバカ化は加速するんじゃないか、なんて話も
してますけども。

 でも、生存上や心の平衡上 喫緊の課題がそれほど無くても、そして社会上の
摩擦から来る課題を避けることができても、すぐに誰もが際限なくバカ一直線に
なるわけでもないですね。

 
 

◆アタマを使う方、使わない方

 課題が減ってきている中で、それでも人のバカ化を押し止めてる力として、
「課題をクリアするとキモチイイ」という脳内機能の存在はやっぱり大きいの
か。

 課題に立ち向かって生き残っていくためでしょう、こんな脳内メカニズムが
出来上がっちゃってるもんだから、こんどはその快感欲しさに自分から積極的に
課題を見つけ出したり作り出したり、ということも多いでしょう。
 それを「向上心」とか呼んで、美徳になったりもしますし。
 また、「自分の遺伝子こそをより残したい」「そのために自分の社会内での
順位を上げたい」みたいな、生存ほどではないけど脳のわりかし深いところに
ある欲求から来る「課題」が、まだけっこう強く作用して人にアタマを使わせ
てる、というのはあるでしょうか。(「利己的な云々」ってやつでしょうか。
この手の「課題」は、それに挑む誰かの行動が、別の誰かに新たな+深刻な
課題を生み出してしまうことも多いのがまた問題ですが)

 その一方で、課題に自ら積極的にぶつかって行くことで得るようなタイプの
快楽から むしろ離れてく人もけっこういます。
 それほど深刻な課題に直面することが無いなら、わざわざ課題を掘り起こし
てまであくせくと挑まなくてもいいじゃん、と、「使わなくていいアタマは
使わない」という脳の志向に、より忠実な人たちです。
 各種娯楽とか、代替的に達成感を得られる手段もいっぱいある昨今ですし。
(聞くに、日本人は殊に小さな達成感で満足を得られやすい傾向がある、
 なんていう話もあるようですね)
 「足るを知る」なんて言い方をすれば美徳っぽい一方、「無気力」とか
「生きていく力に欠ける」みたいな言われ方をしたりもするこうした性向
ですが、実はこちらの方が、環境変化の流れにより乗れている・適応が進んで
いる人なのかもしれません。

 いま日本とかでは「みんな向上心持ってやってかないといけないよな? な!?」
みたいな社会の圧力も強くて「課題を見つけて挑んでく勢」が優勢に世の中
動かしてますが。今後「課題」の少ない状態に長ーく晒されていくと、将来的に
人間の「課題をクリアするとキモチイイ」という脳内機能もだんだん減退して
いくんじゃないか、するとやがて「課題を見つけて挑んでく勢」は少数派に追い
やられていくんじゃないか、今はその過渡期? とか思ったりも。
 ……と、ここまで来るとSFの領分でしょうかね。

 
 

◆SFついでに。

 以下、SFじみてきたところでの余談ですが。

 知能を伸ばして生存上のリスクを減らしていったとともに、社会性を高めて
いったのが人類だとして。

 今は社会の中で「自分が優位に(生き残りやすく)なりたい」みたいに機能
する個々の「生き残るための知能」が社会を動かしてるわけだけど、これは
社会動物として出来上がった状態なんじゃなくて、ただ単に社会性を窮めていく
過渡期ってだけ、なのかもしれませんね。

 もし遠い将来 人類社会が、社会の外からの深刻な「課題」(大きな災害とか)
をほぼ克服し尽くせば、
「社会さえ維持してれば生物種としては繁栄していけるじゃん」
ということに。
 となればその中で個々の人間は、こんどは社会内で機能する/社会を強化する
方向に特化して適応していくのでしょう。能力的にも、気質的にも。

 その過程でもし、個々の人間に「知能は邪魔」「意欲は邪魔」となれば、
それらはまたあっさりと捨てられて衰えていくんでしょうね。

 人々がそんな風になった世界をディストピアだと考えたのが無気力ディスト
ピア系SFで、さらに進んでやがて人類社会全体がひとつの集合知になって
次のステージに行くんだ、とかいうのが人類進化系SFなのだろうなあと。

 そしてそして。
 そうやって個々の人類が知能や意欲をすっかり捨てちゃったまたその後に、
人がすっかり依拠してる社会を脅かすような大なる「課題」がまた新たに
立ち現れたら、それに対抗するために、また改めて知能を発達させていくことが
あるのでしょうか。それともその時は、知能とは別の何かで対抗していくんで
しょうか。いろいろ夢想するのも楽しそうです。

 まあ「性バカ説」はもともと 日常起こってることのその理由を理解する
ために考えたものなので、こんな話はホント余談も余談なのですが。

 
 

課題が無いならアタマを使わなくていいじゃない

 
 
 人は、隙あらば頭を使わずに済ませようとする。
 それが、「バカに向かうのが人の本質」と考える『性バカ説』なのですが。

 極力アタマなんて使いたくないのが人間なんだとしたら。

 それにも関わらず、人がアタマを使うのはどうしてなのか。
 なんでアタマを使いまくって挙句 知能なんか発達させちゃったのか。
 それは、そこに「課題」がある/あったからでしょう。

 
 

◆課題を解決しないと生きてられなかった

 人が立ち向かわねばならなかった「課題」といったら、そりゃあ主に生存上の
もの。
 古くは専ら「対 自然の課題」。
 生き物がキビシイ自然界を生きていれば、飢餓とか捕食者とか天災とか、
次々と課題に遭遇するもんです。
 そんな課題に襲われたらクリアできなければ死んじゃうだけですから、まさに
必死に立ち向かうしかないわけですが、人類は身体能力的な特技や適性に乏し
かったのかな、知能の力を駆使しまくって、「何か達成すると脳に快楽物質が
出て気持ちいいよ」というオプション装備まで搭載していくことで幾多の課題
をなんとかくぐり抜け、まあ自然に対してはかなり優位に生き残れる方かな、
という種族になったよと。で、その過程で、生き残り率を上げるために「社会性」
なんてものを高めていったらば。

 こんど新たに立ちはだかったのは「対 社会の課題」。
 自然という相手をある程度はクリアしたものの、そのためになまじ広く深く
ネットワークしちゃった人間どうしの葛藤が、次なる大きな課題としてグイグイ
前に出てきたと。
 社会の中で順位を上げたいとか安定を得たいとか。搾取してトクしたいラク
したいとか食い物にされたくねえとか。
 現状に至るまで生存上の課題を取り巻く状況はだいたいこんなところで、
「主に社会、ときどき自然」という感じが 今の人がアタマで立ち向かう相手
でしょう。

 
 

◆尻を叩かれないと動かないのは体も頭も同じ

 自然からのものにしろ、社会からのものにしろ、現在のところは人が直面する
「課題」にはまだ事欠かない様子です。
 でも、「生存する」っていう最低限の命題を満たすだけで考えると、昔に較べて
クリティカルな課題って確実に減ってきてないか、と思えます。
 先進国であるほどに。
 社会発の課題は多くが「自分を何かしら強化したい」っていう安全弁や上昇を
求めるものと思えるし(基本、脳内快楽物質欲しさで?)、実はあきらめちゃっ
てもすぐ命に関わるような課題はあまり無いような気がするのですよ。

 「過去~現在」にしろ、「現在→未来」にしろ、そうやって深刻な課題が段々
減っていくと。

 そこは、隙あらば知能を使わずに済ませたい『性バカ説』で動く人間のこと。
 ムリヤリ知能を使わせていた外的なプレッシャーが弱まれば、バカ化が加速
していくことになりそうです。

 実際のところどうでしょう。
 「自分は安泰だな」と思っちゃったところから人がたちまち考え無しになって
いくケースっていうのは、よく見られるのでは。
 昔ならそんなご身分になれるのはごく限られた恵まれた人だけだったでしょう
が、現在は「積極的にバカになっちゃっても生きられる特権」を享受できる層も
けっこう増えてそうですけど。

 
 

人はバカを目指す

 
 
 前に最初の記事を書き散らしてから、もう14ヶ月あまりが経ってしまい
ましたが。しれっと続けてみたいと思います、『性バカ説』のお話。
 1回めは、「こんなこと考えてたんですけど」と表面だけを撫でて終わって
いました。今回から、「なんでそんな考えになるの」ってお話をしていきたい
と思います。

 
 

◆振り返って:『性バカ説』って

 そもそも『性バカ説』って何さ。
 人は「性善説/性悪説」とかじゃなくて、『性バカ説』なんじゃないの、
ってことで、人の本質をつかまえた気分になれる言説として私がでっち上げ
てみたものです。なので、「性善説/性悪説」とかと同様 穴だらけです。
今後さらに考えていったり世の中を観察していったりしているうちに、
説得力が強まったり弱まったりしていくことでしょう。

 《人には常に、バカへと向かおうとする力がはたらいている》

 ――これが『性バカ説』です。

 隙あらばよりバカになってやろう、という振る舞いが、人間の行動には
常に・自然に現れるんじゃないかと。

 
 

◆バカに向かうことは賢いこと

 何を根拠にそんなことを?
 根拠というか、そもそも人間の持つ「知能」って、そういうものだろうと
思うのです。
 「知能があっても『あえてものを考えない』のをバカという」とすると、
「知能」はいつも、いつでも、バカを目指している。

 こういうこと、もっとずっと前に、もっとずっと頭のいい人が、別の言い方で
言ってたりすることなんでしょうけれども。

 
 人類は生物として、厳しい自然環境を生き残っていくために知能を発達させた
らしい。
 知能があるとどんなイイコトがあるかっていうと、何か問題(主に生存上の)
に出会った時、「知恵」を使って対処法を工夫することができる。
 で、そうして生み出した対処法を「知識」として蓄え、次に同じ問題に出くわ
した時に「知識」からその対処法を取り出して、すぐに対応することができる。
 それが知能のメリット。

 ひとたび「知識」になれば、似た問題は特に考えずに「楽に(≒エネルギーを
使わずに/時間も使わず迅速に)」対応できるようになってとっても(生存に)
良い。
 なので、「こんな時にはこうする」という対処法は、できるだけ手っ取り早く
「知識」に頼りたい。
 そんな志向が、自然に人の行動には現れる。

 さらに、「知識」は人から人へ伝達できる。
 外に出して蓄えることができる。
 誰かの知識を伝い受ければ、個々人が「知恵」から作り出す必要が無い。
 「知恵」も使わずに「知識」にアクセスできるなら、その方が何でも「楽に」
対応できてとっても良い。

「隙あらば頭を使わずに済ませよう」
「楽できる方が優れている」
「考えなくてもいいことを熱心に考えるのはむしろ愚かなことだ」

 つまり、「より ものを考えずに生きていける生物になろう」と、意識的にしろ
無意識的にしろ、人は常に思いながら活動してる。
 そして、そういう態度が「賢い」という美徳になってもいる。

 
「賢くなること」と「バカになること」は互いにビッチリくっついてると。

 
 生物としての人間がこうなんだとなれば、これは人間の本質だと言っていい
んじゃないかなと。
 そう思うわけなのです。

 
 

「性バカ説」のこと

 

 このところ当ブログで取り上げている内容が、
自作のボードゲーム『サッカー戦術をボードゲームで表現できるか?』
の対局リプレイばかりになっていまして。

 そればかりでもなんだなぁ というのと、その対局リプレイの更新が
滞り気味な時期の隙間にパッと書けるテーマもあるといいなぁ、という
ことで、以前から私がものを考える上で 割と大きな基準のひとつにしている
『性バカ説』なんてゆーものについて、たまにつらつら書いていこうかと
思い立ちました。

 長く脳内にただたゆたっていたような考えです。どれだけ説得力出して
いけるかはわかりませんが、見切り発車で行っときたいと思います。

 
 

◆「性愚説」と『性バカ説』

 人間の本質とは、――なんて話が何かの拍子で迂闊に飛び出してしまった時
とか、「性善説/性悪説」というのはよく聞きます。
 でも、人間を一括りに「そもそも『こんな』じゃないの?」と語る時に、
善だ悪だを持ってくるのはなんだか おかしな話だなぁと昔から感じていました。
善悪どっちにしろ人為で、価値観というものが常に入ってきてしまう問題です
から。価値観は状況や見方でどうとでも変化するもの。もうちょっと、ものの
道理とか摂理とか、そういうところに近い答えが欲しくなってきます。

「それじゃあ善悪でなくて何だったらしっくり来るだろうか?」とぼんやり考え
ていたところ、私の中ではひとまず『性バカ説』なんてものに至ったのでした。

 
『性バカ説』。
 言葉としては、本当なら「性愚説」とでも呼んだ方が語感がいいかもしれま
せん。ベストセラー『バカの壁』も出版から10年以上経ち、乗っかるには周回
遅れすぎます。
 でも「性愚説」という言葉は、私の考えてることを括るにはどうも不適当な
気がしてまして、あえて『性バカ説』でいきたいと思います。

 
 というのも。

 「性愚説」っていう言葉、ネット検索してみるとけっこう見られます。
 そのまま「人間の本質・本性は愚か也」て感じで使われてるようです。
 これを唱える人はそれぞれ自分の言葉として、「性賢説/性愚説」みたいな
具合に対極させて用いたりもしている様子。

 でも私の考えてることは、そういうのとはまたちょっと違っていまして。

 なので、ここでは「性愚説」と区別する意味でも、私の考えるところを
『性バカ説』と呼称しておきたいと思います。勝手に。
(「性愚説」って音にすると天台宗の「性具説」とかとも紛らわしそうだし)

 
 では、その「性愚説」と違うことろの『性バカ説』って何さ、というと。

 ひとことで云えば、
 《人には常に、バカへと向かおうとする力がはたらいている》
 ――というものです。

 ……伝わりますかねこれで? 伝わりませんよね。

 
 
 

◆で、『性バカ説』っていうのは?

 さて、「人間の本質・本性は愚かだ」という「性愚説」とは違うのです、
ということでお話を始めた『性バカ説』。

 《人には常に、バカへと向かおうとする力がはたらいている》

 ――っていうのが、ワタシ的な『性バカ説』の考え方なのですが。

 これだけではいまひとつイメージが伝わらない自信がある!ので、
もちょっとウダウダ語ります。

 
 前項に挙げた話からいうと「性愚説」の方は、
 「人間の本質・本性は、はじめから・常に変わらず、愚かである」
 ――というものです。

 「愚かだ」という状態に、常に変わらず囚われてると。

ファイル 41-1.jpg

 
 
 対して『性バカ説』は、固定された感覚の「性愚説」に対して、動的な
イメージがあります。

 人というのは、小さい星が大きな星の重力に引っ張られるように、
バカ方向に常に引き寄せられているんじゃないか、という感じ。
 常に「よりバカに」なるよう、頑張って突き進んでる。

ファイル 41-2.jpg

 
 そんなわけねぇじゃん、と思われるでしょうか。
 


  ※ここでの「バカ」の定義

   本稿では「バカ」っていうのは、
  「考える知能があるのに考えない、思考を放棄した人やさま」
   ……という風にしておきたいと思います。

   辞書的には、単に「知能が劣り愚かなこと」とかになるのでしょうが、
  そうした中から、とてもものを考えられるような状態にない場合などを
  排除しておきたいのです。

  「『あえてものを考えない』のをバカという」と、とりあえず本稿では
  そういうことでよろしくお願いします。

 
 どうして『性バカ説』なんてものに至るのか。
 これは「生物としての人間」を改めて考えてみた結果出てきたものでして。

 イキモノならば自然とこういう風になるだろう、と考えてみたら、
なんだかいろんな分野のことについて、自分の中で色々納得できたのです。

 それじゃあ、生物たる人間には『性バカ説』が当てはまるとなぜ思うのか。
そのへんのことは次回以降、また気が向いた時にでも書いてみようかと。

 
>次回

 
 

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