記事一覧

オトナはホントに大人でしたか

 
 
 今のニッポン、「一億総コドモ社会」なんて言われたりもするようにもなって、
もうけっこう経ちますかね。
 不景気から高齢化社会から貧富格差の拡大から…と社会がネガティブ要素に
塗れてきて、「大人になりたくない・ならなくていい・なるのは損だ」という
性向が、遍く国民に広まってしまっていると。
 その時のその時の 目先の気分だけで動くようになって、結果として、責任を
負い、そのための苦労は引き受け、常に向上心を持つ……みたいな大人の
姿勢は大きく失われていると。

 その通りだなと思います。
 思うのですが、同時にその一方で。

 前述したような「大人の姿勢」、「求められる大人像」は、確かに存在した
ろうと思います。社会の・時代の空気として。
 そして、昔の子供や若者は「早く大人になりたい」と憧れたんだろうと思い
ます。

 それでは。

 かつての大人たちは、そんなにちゃんと「望まれる大人」が出来ていたんだろ
うか。
 実はそれほど出来てなかったんじゃないかと、思っちゃったりもするのです。

 「大人の姿勢」「求められる大人像」があって、子供や若者には「早く大人に
なれ」という社会的プレッシャーがあって、「早く大人になりたい」と憧れる。
 そんな中で育って年取った結果、その憧れた大人になれてたのでしょうか。
 「望まれる大人」を実際にやり切ることが出来る人が、本当のところどれほど
輩出されてたものなんでしょうか。
 責任を負い、そのための苦労は引き受け、常に向上心を持つ……常にこれが
できている人なんて、正直、私ほぼ見たこと無いんですけど。

 このあたり何かこう、「かつての大人たち」の多くに 誤解というか、勘違いが
あるような気がしているのです。
 その勘違いというのは、

 「かつての立派な価値観の中で生きてきた自分は、
           (それだけで)立派な大人だ」……という錯覚

です。

 
 

「大人クリア」の誤謬

 「求められる大人像」そのものは、それが忌避されるといわれる現在でも
変わらず立派と思われるものではあるでしょう。それにこれを満たしていると、
実際いいこと(メリット)も多いだろうと思います。周囲に立派と思ってもら
えていい気分。信用もついて来る。何か望む行動をとる時に、自分の意志で
コントロールできる事柄も多くなるはずです。

 で、ほんのちょっと前の社会では、「そんな大人に早くなるべき」という
共通の価値観があったと。その価値観というのは共同幻想(建前)に過ぎない
けれども、すべての人に対して、ある種の圧力として働いていたと。
 そんな圧力がある社会で、誰もが「望まれる大人」になることを真っ向から
目指して生きていたなら それはまぁ結構なことで、世の中は立派な人で溢れて
いた/いるのでしょうが。

 
 しかしそこはそれ『性バカ説』を振り回す私のことですから、そんな立派な
感じだったろうとはまったく思っていません。
 ただ単に、そうした圧力の中で皆が性バカ説的に動いただけのことだろうと
考えてしまうわけです。
 つまり、「極力ものを考えずに楽をして課題をクリアしよう」という動き。

 この場合の課題とは、「望まれる大人だと周囲から見られること」です。
(望まれる大人に「なること」ではなく)
 周囲に対して通りさえすれば、実際に多大な努力=コストを投入して「望まれ
る大人」になる必要などありません。

 ではこの課題をなるだけ簡単にクリアするには?

  実際の本人がどうであるかは関係なく、

 「私はすでに望まれる大人ですが何か」という体で振る舞う。

 バレなければ、これがいちばんラクで効率的です。
 何の努力も要りませんから。
 バレさえしなければ。

 実際、ついこの間まではそういうのが非常にバレにくい世の中でした。
 人を区分するあらゆる属性というか所属というか、そういうものの中身・実態・
裏側が外から見える機会が非常に限られていて、端から見れば、あるグループに
属している人は全員そこの立派な成員に思える。中での優劣とかは分からない。

 「大人」なんていうのは資格試験とかがあるわけでもないし、しかも「大人」
グループに属さない外の人々というと、それは大人に従属する位置に置かれる
子供たちです。子供相手に「俺は望まれる大人だー」とゴリ押しして有無を言わ
せぬことなんて、そりゃもう笑っちゃうほど簡単でしょう。

 ラクでバレないならば、性バカ説的にはそちらの道を選択しない道理などあり
ません。本人が意識する/しないに関わらず。どうしてもそれが通用しないごく
限られた場面でだけ、チョコチョコ努力ずればいいのです。
 いやそうではない、自分はしっかりとホンモノの「望まれる大人」を目指して
頑張ろう! と絶えず意識して行動してる人なんて、どこかで相当強い動機を
植え付けられてしまった変わり者です。希少種です。

 
 で、「言い張ってればそれで大人クリア」な状態がずっとまかり通ってると、
ほどなく当人も「私はすでに望まれる大人である」と思い込んでいく、というのも
容易に想像できる流れでして。ポヤポヤポヤーンと自己洗脳です。私はこういうの
をよく「酔っ払ってる」と言いますが。

 かくして、「求められる大人像」に拠って立つ価値観の社会というのは、
実のところ大半の酔っ払った「なんちゃってオトナ」によって支配されてたんじゃ
ないかなと。

 
 

だんだん色々とバレてきてる中で

 ところが。
 最近になってネットの普及などで情報発信者が増え、いろいろな場の内幕が
徐々に見えるようになってくると、社会のこれまで「なんちゃって」で権威づけ
られていた部分が こまごまとバレてきています。

「歳を重ねていれば、それだけ多くの課題を重ねて経験を積んで、成長・成熟
しているはず」……というのが大人としての説得力でした。ところが、「大して
課題に向き合わなくてもそうそう死なないし年食うことができてしまう」という
状況が、その説得力を霧消させている昨今です。
 このアンバランスも、これまではブラインドの中に隠れていることで辛うじて
大人の権威付けを維持していたものが、どんどんバレて「正体見たり」になって
きています。

「一億総コドモ社会」になっているのは社会にネガティブ要素が満ちてきたせい、
などといわれたりしますが、むしろ、これまで自分らを騙していたこれまでの
ジジババ社会への反発心が多分にあるのではないかな、とも思えるのです。
 騙されていた反発心といっても「今までよくも!」みたいな激しいものでは
なくて、「ほらやっぱり」という達観した冷えみたいな形で。

 一方で年長者の側は「年を経ていれば既にいろいろクリアできている」という
勘違いで、「俺はもう“上がり”だからもう課題は避けていいし何してもいい」
とか錯覚し出す。そんな錯覚から世間に「老害」的理不尽を振り回すようなこと
が起こると、そういうことがあるたびに年少者が年長者を見る目はよりいっそう
冷ややかになっていく。

 こういう傾向が進むことを年長者は「これまでの良き規範が失われた」とか
思ったりするのかも知れませんが、私はこうして色々バレていくこと自体は
いいことだと思っています。
 まやかしが減るならその方がいい。
 世の平衡なんて、常にどこかしら乱れているものです。今までのは隠れていた
り目を向けられにくかったりしただけで。

 今はこうしたバレが「大人になりたくない・ならなくていい・なるのは損だ」
という空気を生んでいるようですが、これから先に目を向ければ もしかすると、
諸々のバレを飲み込んでこれをくぐり抜けた先に・いっぺん価値観が解体された
先に、憧れてもなれなかった「さらなるオトナたち」が出現してくるのかも。
それとも、今とは違う新たな「憧れるべきオトナ像」が出現するだけだろうか。